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「シュルレアリスム展―パリ、ポンピドゥセンター所蔵作品による―」国立新美術館

 http://www.sur2011.jp/
 
 ちょっとこの展示は見たくて行ってきたんですよ。
 まぁ相変わらずに、美術的な知識はほぼゼロに等しい上にまったく知識を取り入れる気もしてないんですけれどね。
 まぁそれはそれとして、シュルレアリスム展です。

シュルレアリスム。男性名詞。心の純粋な自動現象であり、それにもとづいて口述、記述、その他あらゆる方法を用いつつ、思考の実際上の働きを表現しようとくわだてる。理性によって行使されるどんな統制もなく、美学上ないし道徳上のどんな気づかいからもはなれた思考の書きとり」
  シュルレアリスム宣言・溶ける魚』アンドレ・ブルトン著 より

シュルレアリスム絵画には大きく二つの画風がある。

1.自動筆記やデペイズマン、コラージュなどを使い、自意識が介在できない状況下で絵画を描くことで、無意識の世界を表現しようとした画家たち。彼らの絵画は具象的な形態がなくさまざまな記号的イメージにあふれ、抽象画に近づいてゆくことになる。マックス・エルンストジョアン・ミロ、アンドレ・マッソンら。
2.不条理な世界、事物のありえない組み合わせなどを写実的に描いた画家たち。夢や無意識下でしか起こりえない奇妙な世界が描かれたが、彼らの絵の中に出てくる人物や風景はあくまで具象的であった。サルバドール・ダリルネ・マグリットら。
シュルレアリスム - Wikipedia

 
 大体は上記の2つの引用で、内容をあらわすだいたいの言葉としては事足りていると思う。
 単純に思考に刺激が欲しくて行こうと思っていたわけです。
 んで、観ながら考えていたとりとめもないことを、そのまま気持ち悪く書いていきます。これが自動筆記というやつか。いや違うだろうけど。
 
 江戸時代くらいかの鳥瞰図のような抽象画たち。あたかも全体を見ているようでいて、ミクロの部分での描写の縮尺も優先してあり、ズームイン・ズームアウトがなされている鳥瞰図を、地図ではなく思考の変遷でやってみたとしたら。
 たとえば思考をキャンバスに落としこめるという行為には、絶対的な枠線が必要になる。その枠線を超えるにはどうすればいいか。無意識の発想をレイヤーとしてペーストしていき、重ねていけば、擬似的にキャンバスという枠は取り払われる。そうして画面に生まれるのは、思考がレイヤーとして厚みを帯びたものになるんじゃないか。レイヤーの重ねかた、視点の細分化による切り取り。そういった思考実験の結果を見せ付けられているような気分になる。
 そうやって思考実験をしていく過程では、当然ながら結論が見えてはいない。タイトルを見て先入観を抱いてしまっては見えにくくなる作品もあるだろう。純粋にテーマもなく心の赴くままに思考実験をしたのであれば、タイトルは最後にならざるを得ないだろう。考えていった過程で思考はどうとでも自由に動いていく。その思考を順番に起こしていき、最後にそれを名付けるのであるならば、そのタイトルは、哲学といっても差し支えないだろう。
 
 それにしても、なんにせよ作品というものには、最終的に枠がある。限度がある。だから作品として構成され、後世で見ることができる。ただそのパッケージを越えて行くことも時に起こりえる。たとえば絵画がストーリー性を内包していたとするならば、描く限界を超えて、パッケージの限界を越え、ストーリーを描くべく映像作品にだって進化しえた。思考を現実に具現化するには、最終的なパッケージとしての枠を用意する必要があるが、そのパッケージのメディア自体が進化しうるから、将来的には限度はなくなっていくのだ。
 今では3DSなんでゲーム機が出たくらいなので、オブジェにとらわれない3Dや、立体効果を狙った映像作品として作品が制作されることも、そう遠くはないだろう。
 
 
 ……とかなんとか、つらつらと書きましたが、思いつくままに書き連ねたら、わりと何をいいたいのかわかんなくなってきたんですが、まぁそれもシュルレアリスム的な手法ということで、まぁ展示の内容には特に触れていないけれど、まぁいいじゃないですか。

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