『絶望系 閉じられた世界』

『絶望系 閉じられた世界』谷川流電撃文庫メディアワークス
  ISBN:4840230218
 
 黒雨は、これを傑作と呼ぼう。
 誰が認めなくてもだ。
 
 谷川流はおそらく、エンターテイメントに特化しただけの小説が嫌いなんだろう。そういうのを嫌って嫌って嫌いぬいた上で、自分が書いたものもエンターテイメントと呼ばれる小説であることに絶望している。
 だからこそ、この話の構成はこのようなものになっているのだ。
 
 構成上、意図的にセオリーを全てずらすと、そこにはセオリーの逆というセオリーが生まれる。そんなことはわかりきっているからこそ、谷川流はセオリーというものを自分の世界に取り込む。
 ライトノベルというのはセオリーがどうしてもつきもので、オリジナリティーを出すために何かを付与するというパターンが多い。どうしても多くなる。だが、この著作谷川流がやったのはそこではない。
 セオリーを用いてぐっちゃぐちゃに歪めたのだ。
 まともが存在しないのは小説上だから当然だ。そこに共感出来る要素があるから「感情移入」なんてものがある。谷川はそこを切った。
 ストーリーには起伏が存在する。読みどころがあるからこそ読者のテンションはあがるし、リーダビリティなんてものも存在する。谷川はそこを切った。
 キャラクターは記号論だろうが人格描写が豊かだろうがあくまでキャラクターでしかない。そしてキャラクターという個は物語上に存在するのが小説だ。谷川はそこを切った。
 切って、切って、切り捨てて。
 そこまでして何が訪れるかというと、絶望だ。小説というものに絶望するのだ。
 だけれども、それでも。谷川流著作ライトノベルでエンターテイメントと呼び表される小説である。これに相違はない。
 小説を破壊してやろうと、ぎたぎたにしてやろうとする前半部分。まぎれもなく傑作である。だが、これは紛れもなく小説なのだ。悲しいことに小説なのだ。裏表紙を見てみろ。C0193。文庫の日本人が書く物語ものにつくコードなんだ。
 小説を破壊してやろうとしているもの自体が小説である。だからこそ、この著作は後半部分で悪あがきをしながらもラストを向かえてしまう。小説でなければ出来ないくせに、小説だと出来ないことをやろうとしたのだ。それはまったくもってしょうがない。だからこそ、ストーリー構成などを読者にわかりやすいく歪めた。
 この小説を読みおえた読者がまた最初から読み出すことを永遠にくりかえすことを余儀なくされれば、この小説は完成するが、現実には不可能なのだ。
 小説にしか出来ないが、小説では出来ないこと。
 それに挑戦した本作は、意欲作であるし、その挑戦は確実に失敗を迎えるしかない。だが、それでも傑作と呼ぶにふさわしいものになっただろう。
 
 というわけで、黒雨はこれに満足しました。
 あ、いいよ。黒雨の読みが違うとかそういうの伝えなくても。
 あ、追記しておくけれど、傑作だと思っているし、満足したのは本当だけれども、小説がおもしろいかどうかでいえば、おもしろくないと思いますよ? 面白くない傑作。それがこの『絶望系 閉じられた世界』なんだ。