「チェリーフィッシュにうってつけの日」「小川のほとりで」

「チェリーフィッシュにうってつけの日」「小川のほとりで」佐藤友哉/「群像」2004年8月号/講談社
 うわ、今書いたの消えたよ。という訳で書き直し。

 佐藤友哉はもう少し早くこれを書けるようになるべきだった。
 
 佐藤友哉にしては、この作品はスマートだ。そのスマートさは、旧来の鏡家サーガにあった余分なものをこそぎ落として生まれたものだろう。ただ、守るべきものまで失ってしまったように感じる。
 佐藤友哉は今回、今まで「鏡家サーガ」と呼ばれていたシリーズでは出来なかった「鏡家」を純粋に捕らえて書いている。ただ、その「鏡家」は、本当に佐藤友哉が描きたいと感じていた「鏡家」なのだろうか。
 今までに「鏡家サーガ」として描かれてきた中でも「鏡家」は不自然な、違和感のある家族として決して描かれることなく存在していた。本来テーマの中心に置いてよさそうなものに対し、なんらテーマ性を持たせることが出来ない状態が続いていた。
 その中で「鏡家」という存在は、佐藤友哉の中で歪んでしまったのではないだろうか。
 ようやく「鏡家」を中心としたテーマに取り組めるようになったところだが、今となっては『フリッカー式』の頃にあった「鏡家」のテーマから歪んでしまっている。それがプラスかマイナスかは知らないが、描こうとして描けなかった鬱屈からか、正面切って書こうとしても、どこか直視できていないところがあるのではないか。
 「鏡家」像が歪んでしまったのか、「鏡家」に対しての視点が歪んでしまったのかは知らないが、佐藤友哉がこの「鏡家」を昇華させる上では、このような短編はもう少し早い時期に書かれるべきだっただろう。
 そうやってある程度吐き出した上で、佐藤友哉に何が残っているのか、それを見てみたいと思う。
 
 佐藤友哉には、何かが残っているんじゃないか。そう感じたから。