『暁の女神ヤクシー(1)〜(3)』
『暁の女神ヤクシー(1)〜(3)』小林めぐみ/角川スニーカー文庫/角川書店
しびれた。
何がしびれたかというと、SFとも言える設定でも、ファンタジーの要素でも、SF・ファンタジーの融合でもなんでもない。そういったものは、エンターテイメントと呼ばれる小説群の中で、一種の当然の要素として片づけられそうなものだが、これが主題と結びついている。
3巻解説の安田均が書いたように、これはアイデンティティの物語だ。
すばらしいのは、このアイデンティティが、それぞれのキャラクターごとに瓦解していく、その様。その描き様。
なんだこれは。
そのアイデンティティの崩壊ぶりは、舞台設定とも大きく関わってくる。
既作『いかづちの剣』『ねこのめ』と宇宙を同じくするこの作品は、当然宇宙に人類が出る程度には文明が栄えている。ただ『いかづちの剣』で明らかにしたように、星によっては文明が廃れており、科学すら危うくなっているのが現状である。
このややこしい衰退文明という設定をさらりと操り、登場人物がことごとく解体されていく。
衰退した星の国クマリで、幼少の頃から「女神」と扱われてきた少女ヤクシー、一度死んだ記憶を持ったクマリの第三王子シュシ、外の惑星からやってきた雑誌記者ジェイ、クマリに攻め込んだバルキース国のマヒーナタース、同じくクマリに攻め込んだストゥラ国のワズマル少佐。それぞれがそれぞれの事情をかかえ、SFの設定ともファンタジーの設定ともつかない舞台で、舞台の設定に準じながらもどことなく現実味のあることで思い悩む。人間の自我というものを舞台設定だけでなく、読者にも理解できるような感覚と結びつけて、作中のキャラクターが形成されているのだ。
それぞれの事情を読者へたたきつけている。
エンディング。いや、エピローグ。
一応メインの登場人物であるシュシの自我は、救われているようで救われていないような形で物語は終わる。この物語の終わり方が、すばらしいとしか言いようがない。
あんまりに詳しくかくのもあれだが、シュシのアイデンティティに関する問題は、解決したようでいて解決はしていない。そのくせに物語は完結しているのだ。
蛇足でもエンディングでもない、このエピローグは必見である。