アニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」がみたい理由

 結局まだ見ていないんですがね。エンディングしか見てないんで。
 (※2007/04/01 追記  現時点でまだ見てませんし見る暇も気力もないという体たらくだったりします。たぶん「見たい」ってだけで、見ないことになりそうです。)
 
 というわけで、アニメシリーズの「涼宮ハルヒの憂鬱」がみたいんです。
 
 というのも、噂によると、このアニメは第一話で原作二巻の『涼宮ハルヒの溜息』でやった映画シーンだけ説明もなしに放送したらしいじゃないですか。
 つまりは、原作の再構成が行われているんですよ。それも考えると「涼宮ハルヒ」シリーズは、よくよく考えるとアニメシリーズ化にとても向いている気がする。
 
 最初の『涼宮ハルヒの憂鬱』は、スニーカー大賞受賞っつーことで、単発作品なわけです。それが展開するにつれて、非常にややこしいストーリー展開をしたシリーズがこの「涼宮ハルヒ」。
 どこまでネタバレかと言われれば困りますが、原作がある程度出てるんで書きますけれど、単行本の6巻までの時系列は非常に入り組んでいるじゃないですか。基本的には一人称主体のキョンが体感した順、つまり主観的な視点から時系列をぐちゃぐちゃに行ったり来たりしたストーリーなんですよね。さらに短編で、スキマを埋めるように出来事が記載されていく。
 読者にとってみれば、ひとつひとつの出来事が起こった事になっている順番(原作ではよく端々にその出来事が起こった日付がわかるようになっている)は把握しているのに、ストーリー展開の時系列がぐちゃぐちゃで、SOS団の活動を年表化して認識しにくい展開なんですよ。
涼宮ハルヒ」シリーズにおいて、ストーリー展開と時間軸の流れは一致しない。同じ時間を何周もぐるぐると回るように話が進み、合間合間で短編による補足的ストーリーが被さってくる。
 これは、原作が小説であり、一人称であることの特色であると思うんですよ。一人称視点からの話だからこそ、体感している順番に出来事が語られ、また短編により合間合間の出来事が語られるということに繋がっている。
 
 それが、アニメとなることによって、客観という視点が生まれる訳です。どうやっても主人公のモノローグだけの視点という演出は、アニメーションでは厳しいものがあります。だからこその客体。
 それによって何が生まれるかというと、「涼宮ハルヒ」シリーズにおける出来事を、再構成することが可能性なんですよ。
 
 何度も述べたように、原作は一人称であるからこそ、体感のまま綴られた編年体でストーリーが進み、その影響で出来事を年表にしたものと、キョンが体感したものに大幅なずれがある。
 この編年体によるストーリーを、客体という視点から再構成することにより、年表化した順番でのストーリーを描ける可能性もまた、アニメというメディアでは可能な訳ですよ。
 
 いやまぁ、単純にすべてを時系列に即したシリーズ構成にしたら、正直このシリーズの醍醐味ってのは台無しになると思うんだけれど。それでもこのストーリー展開に対して客体というあらたな視点が導入されることによる変化は必ずしも起こるじゃないですか。
 その確実に起こる変化のため、このアニメは単なる原作のなぞりでは成立しえない。だからこそ、アニメ制作側の調理法に期待してしまうのですよ。
 
 それにしても何の説明もなしに、作中で作った自主映画を展開した第一話は、凄い。ストーリー展開を再構成する必然性はあるにしても、ここまで思い切ったシリーズ構成はもうなんというか、度肝を抜く。このシリーズ構成を聞いたとなっては、アニメへの期待をさらに膨らませてしまうじゃないですか。
 
 こんなにアニメが見たいと思ったのは久々ですよ。本当に。
 いや、結局見たとしてもDVDなんでしょうけれど。DVDが出そろったころに、こっそり買って一人感想を書いてそう。それまでじっと貝のように待ちます。あー、楽しみだ。
 
 
 あと、補足するなら、以上の「みたい」という欲求はおしなべて原作を経験したからこそ持てる視点であるということは大前提としてあります。
 
 ただ、あの自主映画を流すという手法は、長い目で見ればもっとも端的で自然なプロローグに、結果としてなっていると思うんですよ。
 そしてまた、あの第一話を真に楽しめるのは、原作未読者だけであり、原作をすでに読んでしまった人は「そういう構成にしたのかフムフム」と訳知り顔で楽しむことしか出来ないと思います。
 っつーのも、原作未読者が、あの第一話を見たむちゃくちゃな違和感から、次回以降まで見たとする。後々になってその第一話の役割に気づいた衝撃は、原作未読者にしか味わえない。このじわじわと効いてくる第一話の衝撃を、リアルに体感できないということは、原作をすでに読んでしまった不幸であると言えよう。
 
 問題は、原作を読んでいない状態でアニメを見続けたか、という疑問であるが、そんなのは4年前からTVアニメシリーズをまったく見なくなった黒雨は、個人的習慣として確実に見ないという結論しか出せないので、きちんとTVアニメを追いかける性癖のある人が考察すべき問題として放棄します。
 
 あと。どうでもいい補足。
 こうやって、アニメシリーズの「涼宮ハルヒの憂鬱」がみたいと書いたのは、これを見たいからDVDが買いたいという理由であり、そのためにアフィリエイトで儲けたい。激しく儲けたい。
 ということを書いておけば、多少はオチてくれるので、最近は生活だけでなくオチまでアフィリエイトに頼りたいと思っている次第であります。