本という存在そのもの

 本という存在そのものについて、そういえば考えを文章化したことはない。少人数での飲み会では語ったことは少なからずあるのだけれど。
 
 そういえば、本読みって本を大事にするんだろうか。
 本読みにとっての本って何だ。黒雨にとってみれば、所詮モノでしかない。本とは商品なのである。それ以上でも以下でもない。あとは消費文化としての文化があるだけにしか思えない。
 
 そういうことを文学部卒が言うのもなんだが。
 たとえば日本文学が行う行為というのは最終的に「とある日本にいた人物の研究」である。そこには小説の著作という必然性はなく、本人が書き記した文字があればいいのだ。
 
 自分のことを棚上げして言うのもなんだが、かなりの本読みが感想を書く場合、少なからず作家論・作品論的な、内容に即した何かを書く場合が多い。もうちょっと、内容以外の面に目が向かないものか。
 本の感想であるのならば、内容を書く必要もなく、内容で盛り上がる必要もないんじゃないか。
 
 黒雨は本読みによる、内容以外の面を重視した本の感想を知りたいし、今後はそういう点での感想も書いていきたい。
 
 ただ、黒雨はそうはいっても、何だかんだでオタクというカテゴリに属する(自覚しながら、わざと婉曲表現した奥ゆかしさをくんでください)が故に、内容について書いてしまう悲しい人間なのですが。そういうバランス感覚とかを、趣味的に書いている日記で、わざわざ行う気になれないんで。
 
 ともあれ、アイフルの広告とかで、あの犬を登場させたのは上手い、とか書くサイトなんかごろごろしてたと思うんですよ。
 本ではそういう感想の書き方が一般じゃない。内容語りが多い。それは、アイフルでいったらサービス内容を語るようなもんでしょ。アイフルの利率はね、みたいな。バファリンだったら半分がやさしさ成分なんだよ、とか。
 あ、今のはなんか違う。
 
 いや、ふと何が言いたくなったかって、実用書って、小説と違って、歴史上の位置づけとかそういうのに立脚した文化としての立ち位置がないんですよ。いや、歴史はあるし、消費文化としての文化はあっても、文化的な文化としての文化がないっていうか。
 
 本読みを名乗るのならば、実用書も数をこなして読んで、あの法律本はこういう流れにおいて、とかいう話とかさ。
 あとは、海外の小説が翻訳者によってどうか、っていう視点はままあると思うんだけれど、たとえば冠婚葬祭本については書き手によった違いってのを比較検討する人はいないじゃないか。
 小説しか読まないのなら、それは小説読みであって本読みじゃないんじゃないか。そういう揚げ足取りが気になっただけ。
 なんかなんとなく「本読み」という言葉のニュアンスに含まれる「本」の対象が「小説」というチャネルに限定されている感覚がしているのです。
 小説読みというのは、本読みの下部構造であって、小説読みは、あくまで本読みの一部であるという認識が、どうも世間ずれしている気がするんです。
 
 趣味に読書と書いてたら、そこに内在するものは小説というニュアンスの方が近い気がしますし。だからこそ、某あのサークルは「総合文芸サークル」であって「読書サークル」と名乗っていない気もするんですが、一般論的に読書のイメージとはなんだ、っていうのでグルグルと。
 
 あと、本日はニートのおごりで飲んで酔ってグルグルしてます。

 たぶん、言いたいことの中にはある程度、「本読み」とか「読書」とかいう言葉に付着している先入観への嫌悪感が含まれているのです。
 ただしかし、その先入観は「自分が」持ってしまった先入観なのか、「他人が」抱いている先入観なのか、その区別すらまだ自覚できてないままに嫌悪感。
 
 厭世主義で世は暮れて。