徒歩が産む憂鬱
歩く。
ひとりで道を歩いているとすぐに、自分という存在のちっぽけさに恐怖する。恐怖恐怖恐怖恐怖。恐怖に怯えて思うことはマイナスの意味での「何故?」から始まる。
何故?
何故自分がここを歩いているのか。何故こんなことをしなきゃいけないのか。何故自分はこうも自分なのか。何故自分はこうも無力なのか。何故、何故、何故、何故。
何故の連打でひとまず自分を打ちのめす。
自分の無能さ、無力さ、無神経さ、無価値さ、すべてをだめ押しのように自分にぶつけて自分を打ちのめして打ちのめしてたたきのめしていくうちにわき上がってくる諦念。
自分はこうまで“無”能で、“無”力で、“無”神経で、“無”価値な人間なのだから、自分はもはや“無”なのだ。自分には本当に何もないんだ。何もないんだ。
自分という存在をそうやって全ての面から否定して否定して否定して否定して。
しまいには自分がまるで幽霊にでもなったみたいになって、自分の存在の有無が、自分ひとりでは確認できなくなってしまう。そして吐き気を催しながら、脳内で問いが投げかけられるのだ。
僕は本当にここにいますか。存在していますか。誰か自分の存在に気付いていますか。ここにいるのは自分ですか。僕は自分ですか。自分は僕ですか。
誰かに問いかけたい問い。
でも、突然そんなことを問いかけられても困るから、用件のありなしに係わらず適当な内容の連絡を取ってしまうのだ。
誰かとコミュニケーションをとりたくて仕方ない。
誰かに連絡を取って、“自分の発言に返事がくる”という事実で、自分の存在の証明をしたいのだ。
それでも、そうそう都合良くはいかない。
応答が返ってくるだけで満足するかと言えば、人間は欲が深くて満足など出来ない訳で。
そもそも道を歩いている時にはマイナスの意味の事以外考えないために全てマイナスの意味で曲解した結果になっているのは十分に自覚しているのだが、自覚しただけでそう思うことをやめられるかといえば、まったくそんな事はない。
未だに患っている不安に思う精神状態と“自分の存在”に対しての自信のなさが拍車をかけるのだ。
返事の内容をマイナスに曲解してしまいたくなる。連絡の取れない事情をマイナスに曲解してしまいたくなる。
単純にそれは自意識過剰なのかもしれないけれど。でも、どれもこれもマイナスに曲解しようとする動作を、呼吸よりも自然とやってのけてしまう。
負の連鎖が始まる。
これまでの24年間を踏襲した、マイナスの曲解にそろそろおさらばしなくてはと思っているけれど。思っているのだけれど。
マイナスにマイナスを重ね合わせて見事にマイナスの相乗効果を生んで、しまいには道を歩いていて過呼吸になる。
昔は歩けないだけでしたが、最近では歩けるようにはなっています。
ただ、歩けないという事象は過呼吸へと移行していて、何にせよ一度この負の連鎖に陥ってしまうと、家に帰ってくるという徒歩移動の時でさえも、不安で不安で焦燥感がたまらなくて過呼吸がスタート。
誰かに連絡を取りたくて取りたくて仕方なくって、それでも突然の電話じゃまずかろうという時間になってしまうし、そもそも【自分という存在】に対する不安感は誰にぶつけても自分で解決するしかない問題なので、連絡なんか取りようがない。その件は全力で伏せて生きるしかないのだ。
自己否定した精神を、否定しなおさなきゃいけないのだ。
でも、マイナスにマイナスをかけてプラスになるなんざ、数学の理論なんて精神に通用するわけもなく、もうなんだか何もかもわからなくなってしまう。
しょうがないけれども、なんとか歩いて帰るのだ。
ひとりでただ歩くだけで、勝手に精神的に追いつめられる自分でも、それでもひとりで歩くことをやめることができない。
ひとりで歩くことによって憂鬱が発生する。その憂鬱を使って自分自身を傷つけたくてしょうがない。自分という存在への不信感だけでなく、いまだに乗り越え切れていない自己嫌悪が頭をもたげてきて、自分を精神的な意味でも傷つけたくて、過呼吸になりながら歩く。
そんな時に行った連絡は、きっと全てダメな内容になってしまうのだろう。
ダメな上で迷惑だ。
自分の存在を全世界に謝りたくて、ごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめん、ってごめんで埋め尽くされる精神状態の時に、取ってしまう連絡はすべて迷惑な連絡にしかならない気がしてならない。
思わず泣き言を連ねたくなるのだけれど、でも相手の事情を無視してそんな“ひとりで歩いたから鬱になった”なんて泣き言を伝えてもしょうがないから、自分の精神状況は、日記に書くのだ。そして酒を飲むのだ。
ただひとり歩くだけで追いつめられる。
追いつめられるのはわかっているのに、ひとりで歩かないと生きていけない。
もう手遅れなくらいに歩いてしまわないと、通勤すらできない。
ひとり歩き。
憂鬱の鏡。