『ネコソギラジカル(中)(下)』

ネコソギラジカル(中)(下)』西尾維新講談社ノベルス講談社
  
 終わらせたのは英断と認めるけれど、面白いとは言えません。
 
 というのもですね。何というかなぁ、黒雨の意見なんですが、西尾維新はエンターテイメントではなく、ライトノベルになりすぎてダメになったと言いたい。
 前半は結構好きでしたよ。ああ、好きだった。サイコロジカルまではオーケーだ。
 ヒトクイ以降は本当に黒雨は受け付けない。
 何というか、西尾維新はエンターテイメント(という言葉をあえて選ぶ)系の小説すべての要素を用いることで、質の良いものを提供出来ていた。
 ジャンルの横断と、ジャンルのセオリーの破壊を繰り返す焼き畑農業的手腕でぐいぐい惹き付けていたね。
 
 ただ、ヒトクイマジカル以降の作品は、決定的にライトノベルという範疇へとシリーズの展開が移行していく。シリーズ後半では、物語という構造をメタファーとして用いてみてはいるのだけれど。
 それは、シリーズ後半でこそ不適切なんじゃなかろうか。
 シリーズ前半で縦横無尽にジャンルの要素引っ張ってきてセオリーをぶっ壊していったのなら、その勢いで小説という概念そのものをぶっ壊してくれるのかもしれない、と期待はした。
 しかし、シリーズ後半になると、ひとつのジャンルに留まった上でのストーリー進行となる。それも王道的な形を意図して。
 別に王道という概念を否定する訳ではまったくないのだが、王道の進行をしておきながら、物語というメタファーを使って小説の内と外を逆転させようとするのは矛盾の度が過ぎて気が削がれます。だったら王道のストーリーなんか使うんじゃねぇ。
 
 それとね。
 王道のストーリーとか、主人公の成長物語的に見せたりしているけれどさ。
 ひとつのジャンルという事で考えるなら、西尾維新以上の作家なんてゴロゴロしてるんですよ。別に西尾維新がこの戯言シリーズでやんなくてもいーよ。それを敢えて選んでやっているんだとしても、それにしちゃあ完成度が低いんですよ。
 西尾維新はひとつのフィールドで闘ったら確実に弱い作家なんですよ。売りは言語センスのみになってしまう。そこに狂信的に賛同できるならいいんですがね。
 
 西尾の魅力というのは「なんでもありの小説タッグマッチ」なんですよ。ヴァーリ・トゥードの魅力なんですよ。西尾維新著作という中に、さまざまなジャンルから要素ぶっこ抜いてきて、それを本気でつぶし合わす、格闘技のプロデュースに長けていると思うのです。
 だから、戯言シリーズの後半は、そのプロデュース能力がぶっ壊れて、試合は面白くないのに解説だけ面白い格闘技の試合みたいなもんですよ。そんなのを正直に楽しめる訳はない。
 あーあ、こうなっちゃったか。って感じでした。
 
 ま、でもキャラ萌えして読めるようなヒトには楽しいんじゃないでしょうか。知らないけれど。黒雨の弱点は、こんな感じでオタク的な側面があるのに、キャラ萌えという側面から何も読むことができないってことだとつくづく感じてます。