ストーリー、それとも他の涼宮ハルヒ。

 たとえば小説。

 現在、黒雨が持つ読書方法論としては2つ実感できている。それがキャラクター主体の読み方であり、ストーリー主体の読み方なんだ。たとえば谷川流作品を読んで思った感想なんてものは、黒雨をその2つの読書方法から解き放つ架け橋となってくれるかもしれない。
 
 キャラクターの設定を語り終えることが小説になりえる視点や、キャラクターは登場人物であり、登場人物が交差することにより生まれた「物語」を読むこともある。
 当然ながら、他にも読み方は色々あるだろう。SFやミステリを読む人にとっては、作品中の仕掛けが重要であって、登場人物は二の次であり、作中の仕掛けのためのコマであることが優先事項である。
 そういった視点の切り替えによって、小説というのは読み方や読後に抱く感想は変わっていく。どんなに自分に合わないと思った作品も、視点を変えるだけで恐ろしいほど感想が変わるものだ。
 
 ここまでを前置きとして、本題に入ろう。
 この日記では何度も書いたが、さらにもう一度。話題は主に『涼宮ハルヒ』シリーズについて。こないだ、後輩の5年生2人とモツ煮くずれ屋で飲んで話した時のまとめをしたいだけなんですがね。
 
 さて。
 まずは、谷川流という作家は、キャラクター小説と、そうでない小説がどちらとも描ける作家であります。それは単純に『電撃!!イージス5』と『絶望系 閉ざされた世界』を読み比べてくれればいいかと思いますが、前者は世界設定の前にキャラクターが生まれています。キャラクターの設定として世界が派生しています。や、あとがきにもそう書いてありますし。後者はまったく違う。キャラクターはコマでしかない。それも小説の仕掛けとして、不必要なコマとしての存在を必要としていたがために描かれた記号的なキャラクターが、「天使」とか「悪魔」以外の呼び方を持たない無名の駒として存在している。
 
 そこで注目なのが『涼宮ハルヒ』シリーズ。これがそういった観点から見れば、実に歪なシリーズになっており、それが故に人によって好きな巻が明確に分かれている
 『憂鬱』の時点では、キャラクター小説ではなかった。萌えキャラクターとして登場人物に注目が集まるのも、ただの結果論でしかない。『憂鬱』時点では、そのキャラクターではなくストーリーのアイデアを昇華するため、いわばミステリにおける犯人と被害者と探偵とのような形での配置がなされている。
 ところが、その様子が徐々に変わってくる。『溜息』では、第五章のラストにすべてのアイデアが詰められている、長い前振りの小説と言えるでしょう。『退屈』では時間SFとしての世界設定をスタートさせている。そしてその世界設定は長く続かない。
 その終わりこそが『消失』である。『消失』で、涼宮ハルヒシリーズという物語は一度完結している。この巻で、SF小説としての『涼宮ハルヒ』シリーズは終わっているのだ。
 
 ただ作者が上手かったことは、シリーズのあり方が変わる課程を、実に自然に行ったことだ。
 『消失』のラストで、時間SFとして1つだけ解決しなかった点を残している。その未解決点を、次のスタートへ持ってきているのだ。そのため、シリーズのあり方がシフトする「瞬間」というものが存在しない。実に自然な時間軸でそれが存在している。
 そして、シフトした後に展開されたのが、キャラクター主体の小説なのだ。そこはアイデアから始まる小説ではなく、キャラクター前提で、キャラクターの設定(背後関係)から発展させた物語となっており、最初に存在した駒としてのキャラクター配置ではなくなっているのだ。
 
 ラノベ読みというのは、おそらくはキャラクター小説読みであるのかもしれない。キャラクター小説読みからすれば、『涼宮ハルヒ』シリーズは、確実に『陰謀』以降が面白いだろう。それまで慣れ親しんできたキャラクターから読み解くという読み方で、小説に触れられるのだから。
 その変貌は、英断だとも言える。アイデア前提で小説を書くのであれば、別にシリーズでなくともいいのだ。ある種シリーズとなってはいるが、巻ごとにキャラクター配置を自由に展開できる設定の『学校を出よう!』シリーズの方が、適しているだろう。
 
 『涼宮ハルヒ』シリーズは、SF小説からキャラクター小説へと変貌していっている。
 現在も変貌の途中であるだろう。語り部であるキョンの文体も、徐々に変わりつつある。語り部であるキョンの文体も、おそらく最初は駒としてのキャラクターを隠すために、人物描写を自然に行うため、必然的に一人称にならざるを得なかっただけだろう。ストーリー運びのために、駒として人物を配置するだけでは、キャラクターとなりえない。そのための人物描写手法として一人称視点が存在したが、それが変化しつつある。
 そもそもがキャラクター小説として展開するには、あの一人称視点はもったいないのだ。キャラクター主体で描くなら、一人称視点では見過ごしてしまうもったいないシーンが各所に見受けられる。それを全部スルーしていた初期と異なり、徐々に各登場人物の描写が入るようになりつつある。
 
 『涼宮ハルヒ』シリーズを読む上では、視点がひとつだけでは楽しめないのだろう。
 キャラクター視点からでも、ストーリーを読む視点からでも、両方の視点で捉えないと、その面白さの把握は難しい。その点では、かなりハイレベルな読書を求められているシリーズだ。
 
 ただ、残念。
 出だしで、『たとえば谷川流作品を読んで思った感想なんてものは、黒雨をその2つの読書方法から解き放つ架け橋となってくれるかもしれない。』と書いておいてなんだが、黒雨はどうにもキャラクター主体だけで読むスタイルには、どうにもなじめない。
 黒雨は、小説を読む時には登場キャラクターや世界観やストーリーの中に作者の心理・考えを見いだそうとしてしまう。
 キャラクター主体の小説として読むスイッチは、あるにはあるが錆びつきかけているんだ。
 そのためか、『涼宮ハルヒの陰謀』や『涼宮ハルヒの憤慨』をある種面白いとは思えても、『消失』までに感じていたような面白さと同列に扱えない。完全に別シリーズとしてしか思えなくて、その新シリーズは黒雨には以前ほど面白くないとしか言えない。
 
 まぁ、そりゃ当然だ。同じシリーズのように見せかけた別シリーズなのだから、以前と比べる方がどうかしているだろう。そう思う。
 
 
 ……あれー。本来書こうと思っていた内容とはかなり異なってしまった。本来は例示として『涼宮ハルヒ』をあげたつもりだったのに、いつのまにか『涼宮ハルヒ』論になった。『谷川流作品から本格SF読みになれるかどうかの思考実験』はどこへ。まぁいいです。そういうわけで、黒雨はキャラクター小説も、本格SF読みにもなれなさそうですね。ってことで終わります。
 
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