『ボクのセカイをまもるヒト(2)』
『ボクのセカイをまもるヒト(2)』谷川流/電撃文庫/メディアワークス
ISBN:4840234442
つーわけで、ぼちぼち書くよ。
まず、大前提として、3人称視点の物語とは、個性を消した1人称に他ならないのであり、3人称とも呼ぶべき絶対的な第三者などは存在しない。それは明らかに「神」とも呼ぶべき視点なのだが、谷川流は、その視点に対して、たびたび懐疑的な視点を投げかける。
たとえば『学校を出よう!』の5、6巻では、作中の世界と原点として、平面幾何の考え方で3人称視点を解体していく。平行世界を横軸、世界の上下関係を縦軸として、平行世界についても描けば、作中世界を操る上位世界、それも我々読者がいる世界と、作中の世界をつなぐような、端点のない永遠の連鎖を描こうとしている。
そして『絶望系 閉ざされた世界』では、キャラクターにたいして、絶対的な駒としての配置を徹底することにおいて、その先にそれを配置した人物としての絶対者が透かしてみえるような構造にもなっていると言えるだろう。
この作品においては、どのようなアプローチかといえば、3人称視点を、個性を消しておきながら作中キャラクターとしての主観を塗りたくった1人称的な3人称視点ともいえるだろう。
3人称視点では、前述したように個性を消したとしてもどうしても出てしまう主観がある。それが、この作品においては、まったくない。明らかな主観、それも作中のキャラクターとしての意見が現れる。
だが、それでもこの作中世界において、ストーリーにも登場人物にも、現時点で一切関わりを持たない第三者としか呼べない存在の視点で語られる。その上、そのキャラクターが存在するという説明を一切放棄している。それもそうである。自分がどんな存在であるか、を内心で他人に説明する行為というものに意味はないからだ。
さて、その視点を通すことで、作中にしばしば現れる小説に対する悪態、キャラクターの存在意義に対する懐疑というものは、作者の意見が漏れ出るストレートな表現にならない。地の文も会話文もキャラクターが何故そこにいるかという、キャラクターという駒の配置さえも、作者ではなく、3人称という役割のキャラクターによるものとなるのだ。
この形式をとることにより、作者という存在がより気迫になっていく。『ボクのセカイをまもるヒト』というのは、ある種の谷川流による自殺、つまりは作者というものをすっとばしてしまった作者不在の小説――作者殺しの小説を模索しようとしているのではあるまいか。
小説において、谷川流の中では、「作者」は確実に「神」たりえないのだから。
この作品における《妖精》とか《剣精》だとか《不死人》だとかいうストーリー設定は、表面的なものでしかない。少なくとも、その表面はエンターテイメントとしての体裁を失おうとはしていない。
だが、この形骸化したストーリーだけで楽しむようなものが、この作家の本質ではないだろう。
むしろ、黒雨の感覚でいうならば、その形骸化したストーリーだけならば、谷川流という作家をここまで追うなんてことをしていない。『涼宮ハルヒ』シリーズにおいても同じで、表面的なストーリーでも楽しませる能力があるのはいいのだが、それだけに終始しているのならば、凡百なライトノベル作家の一人として、埋没してしかるべきだと思う。
まぁ、ここまで通して何が言いたいかっていうと、この小説、ストーリーだけで読むとすっげぇつまんないから、こういう読み方をして楽しみましたということです。